「no excuse」

8月の展覧会の時に「どうして墨で描こうと思ったのか?」と
何人かの方に聞かれました。
自分でも考えたことがなかったので、答えに困りました。
が、よくよく思い起こせば、シド・マリクラークさんのワークショップの
時に墨を使ったのが最初だったと思います。

その時は洋紙に墨でしたが墨の黒は暖かみがあって紙の上で
よく伸び、暈したり、垂らしたりすると、絵の具とは違う変化をみせる
ので一遍で魅了されました。

そして段々描いてゆくうちに、やっぱり墨には和紙でしょ。と、自然に
和紙に描くようになっていった気がします。
和紙も始めのうちは、いろいろ試してみましたが、今は「雲肌麻紙」
に落ち着きました。
まず、その名前に惹かれ、そしてまさにその紙の肌に惚れ込んで
しまいました。
色といい、質感といい、強度といい、本当に美しい和紙です。

それで最近は、その美しい肌を塗りつぶしてしまうのがもったいなくて
、わざと「何も塗らない」場所を作っています。
考えてみれば浮世絵とは、そういうものでした。
その不思議な空間の広がりは優しい空気に覆われていて音楽に
例えれば、余韻とでもいうのでしょうか、これからはそんなものを大切に
して描いてゆきたいと強く思いました。

何年かに一度、変化の時が訪れますが、どうも今がその時のようです。
今まで過剰に使ってきた色も素材も、もういらないな・・・という気が
しています。それはそれで、1つの歴史ですが今は「潔い」がキーワード
になっています。
それはたぶん、生き方にも密接に連動していて、生活の中でいらない物
や感情を手放してゆくように、絵からも手放してゆこうという境地に
なってきたのだと思います。


no excuse
「no excuse」 (和紙に墨、アクリル ミクストメディア)

今秋のパリ国際サロンに出展予定の作品は、そんな心境を反映して
「no excuse」という題名をつけました。

だいたい抽象画には題名はいらない、と美術評論家は言います。
抽象画とは観る人が想像力を働かせて、自由に観てもらうものだから
題名で邪魔をしてはいけない、という意味なのでしょう。でも、番号や
アルファベットでは味気ないので、私はやっぱり題名をつけたい。
ただし、題名で想像力を妨げないように気はつかっていますが。



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コメント

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ほんの数年のおつきあいですが、
この数年間の変化は本当に見ていて羨ましいほどです。

そういえば、ロスコの作品には『無題』が多いです。
その境地・・・って、たはは、私には想像もつきませ〜ん。笑

tomokoさま
絵を描く方にもいろんな方がいらして、同じ題材のものを生涯、描き続ける方もいるし変化し続ける方も。私の場合は後者で、しかも変化が激しい(笑)。昔、植物画を描いていた頃を知ってる人は今の私の絵を観ても私と分からないでしょう。いいも悪いもない、それが私なんだから仕方ない、変化し続けるしかしょうがないんですねぇ。それはそれで、しんどいんですが・・・。

わぁ、墨がリズミカルに踊っているみたい♪

香子さま
はい、最後の最後にザバーッと、墨をぶちまけるの、快感です(笑)。でもその後が大変でした、墨が乾かなくて、ドライヤーかけたり扇風機にあてたり、締め切りギリギリに間に合って・・・。描いていた時間より乾かしている方が長かった、という(笑)。

こんにちは!「墨の黒はあたたかみがある」わかるような気がします。紙と同化するのか、水と同化するのかわかりませんが、絶妙な「曖昧さ」が墨にはありますよね。それが何となく、人間味があるように私には思えるのです。
手放す・・・私も手放したいものがいくつもあるのですが、
意に反して今は「抱え込んで」います。いつになったら
手放す境地になれるのかな・・・。
no excuseを観て、そんなことを思いました。

絵美さま
「手放す境地」になったつもりでも、まだまだ手放せない・・・(笑) 人間って業の深い生き物です。歳がゆくと、え?これも?え?こんなことも?って、手放すものが多岐にわたってゆき、なんだか手放す為に生きてるみたい。言い方を変えれば整理する為に。上手く手放せた人ほど、軽やかにアチラ側にいけるような気がします。つまり執着がない人ほどってことですかね。自分でも気付かないうちに、執着してることって、案外あるもので驚きます。